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東京の三毛猫です。街と自分と、色々考え中。
 相変わらず℃ピーカン
2007年05月17日 (木) | 編集 |

相変わらず世田谷強盗殺人犯は捕まっていない。30代の派手なシャツを着た男か?
この辺には沢山いるからなぁ。

そういえば、テレビでお腹を刺された警察官が助けてもらえずに映され続けている。
立てこもりは丸暴だって?
あの辺には沢山いるのかねぇ。

長久手といったら、「小牧長久手の戦い」と、期せずして事務所で同じ声が複数上がった。
たまには歴史のお勉強でも。
本能寺の変で信長が死んだ後、尾張・清洲城で後継者決定会議が開かれた。これが、世に言う「清洲会議」である。
信長の次男・信雄とその弟の信孝が後継者の地位を争うが、結局、本能寺の変で倒れた信忠の長男・三法師(のち秀信)という3歳児をトップに据え、信雄・信孝がバックに着くという形で落ちを付けた。
その後、秀吉の実力アップに伴い、後継者問題で不満紛々の信雄は、徳川家康に助けを求めた。
1584年(天正12)、信雄は秀吉に内通していた3人の家老を殺害。これが事実上の宣戦布告となり、家康は信雄を援けて秀吉と正面衝突した。
これが、小牧長久手の戦いである。
家康・信雄の連合軍約1万7千、秀吉軍約10万は、対峙して8カ月、大がかりな戦闘をせずに睨み合った。家康が一度だけ実際に戦ったのが、長久手の戦いである。秀吉軍・三好秀次(秀吉の甥)・池田恒興・森長可が、家康が留守の三河を奇襲しようと出兵。これに対し家康は、長久手で待ち受け秀吉軍を撃破した。秀吉が出陣した時には、家康は早くも小牧の本陣に引き上げていた。肩すかしをくった秀吉はやむなく引き返し、戦線はふたたび睨み合いの状態に戻った。
ちまちま出入りのある戦闘をした訳である。
大苦戦かつ長期の布陣で秀吉は嫌になったらしい。
信雄を懐柔、単独講和を結んだ。家康は秀吉と戦う大義名分を失って岡崎城に戻り、ようやく停戦を迎えた。

今ニュースを見たら、まだ立てこもり中・・・。
早く決着がつくと良いが。
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